The Guardianのニック・ターナー追悼記事

Exif_JPEG_PICTURE

ニック・ターナーの逝去について、イギリスの大手新聞メディア、The Guardianガーディアンに追悼記事が上がっていました。良い記事でしたので、和訳転載します。いくつかのエピソードには多少誤認はある感じですが、かなりの長文でニックというアーティストに対するリスペクト、ホークスのイギリスでの一般的な受けとめが詳細に書かれています。ファンの間では名言とされているJust make some noises in the key of Eの逸話も。

オープンマインドで、実に多彩:ニック・ターナーはホークウィンドの精神だった

バンドの他のメンバーとは時に衝突もあったが、ターナーのサックスは70年代の彼らの硬質でカタルシス溢れるサウンドに不可欠な存在であった

15年前、BBCがHawkwindの歴史についてのドキュメンタリーを放送した。トーキング・ヘッズが彼らの多大な影響力を証明し、LSDにまみれたバンドにありがちなストーリーを回想していた。しかし、番組全体は悲しみに包まれていた。ホークウインドの古典的なラインアップとされる、あり得ないようなヒットシングル「シルバー・マシーン」 と1973年のとてつもないライブアルバム「宇宙の祭典」を録音したメンバーの生き残りが、どうやら取り返しのつかない形で仲たがいしてしまったようなのだ。ベーシストのレミーと元バンドメンバーの間には、明らかに情が薄いようだった。一方、ホークウインドの不動のメンバーで事実上のリーダーであるギタリスト兼ボーカリストのデイヴ・ブロックは、このドキュメンタリーへの参加を完全に拒否した。「理由は、『ニック・ターナーがこのドキュメンタリーに出ている』」と、ナレーションは悲しげに告げていた。

ターナーとブロックの関係は長い間ぎくしゃくしており、おそらくターナーの明確なフロントマンのいないバンドで注目されたいという欲求が影響した(ブロック、ターナー、レミー、バンドのトラブルメーカー作詞家ロバート・カルヴァートら複数人がリードボーカルを担当、作詞家マイケル・ムアコックもステージで頻繁に朗読)。しかし観客には多くの見どころがあって、ミュージシャン以外にも、目を見張るようなサイケデリックな光のショーや、彫像のように美しく、しばしば裸で踊るダンサー、ミス・ステイシアの存在もあった。ターナーがホークウインドと最初に別れたのは1976年で、ターナーは「何度も禁止されたにもかかわらず」ステージ上で他のメンバーのソロやヴォーカルに被せてサックスを演奏するので解雇された。

80年代前半に一時的に復帰したターナーは、蛍光色のボディストッキングを着用しローラースケートで演奏するようになり、他のバンドメンバーを困らせたようで、再び追放された。著作権侵害とホークウインドの名前を使ったツアーの可否をめぐる論争で、ターナーは敗訴。他の元メンバーやファンの間でも賛否両論があった。創造的なパートナーシップの鬱陶しい終わり方だった。「ニックはバンドの精神だった」とムアコックは言っていた、「デイヴはそのバックボーンだった」。

ターナーは紛れもなくホークウインドの初期の成功に欠かせない存在だった。彼はホークウインドの不朽の名曲の数々を作曲または共同作曲した。『You Shouldn’t Do That』『Master Of The Universe』あの恐るべき『Brainstorm』など。10代の頃にマーゲートで一緒だった旧友、双極性障害を患っていたカルバートをバンドに招き入れたのもターナーだった。彼は『シルバー・マシーン』を共同作曲したがリードボーカルは差し替えられた。(レコーディング中彼は入院していた)。

もう一人の旧友、リングモジュレーターを使って「奇妙な音」を作り出す元ドラッグディーラー、”オーディオジェネレーター”ディック・ミクを採用したのもターナーだった。ミス・ステイシアやホークウインドのアルバムスリーブからステージ上のセットデザインまで、すべてを手がけたデザイナー、バーニー・バブルスの採用も彼である。また、伝説によると、ホークウインドのやる気のない元ローディだったレミーの首にベースをかけ、ベースが弾けないという彼の抗議に”Just make some noises in the key of E”(Eキーで何かノイズを出せばいい)と答えたのもターナーだった。

一方、ターナーのサックスは70年代の彼らのサウンドに欠かせない存在で、ギターのリフに合わせて唸りを上げたり(彼はこの楽器を次々とエフェクターにかけた)、自由自在に吹きまった。ターナーは60年代半ばにベルリンに滞在していたときにフリー・ジャズに出会っている。後者の演奏をソロと呼ぶこともできるが、少なくともレコードでは、彼の演奏はその言葉から連想される大げさな意味合いはない。常にミックスにわずかに埋もれているギターソロや、ディック・ミクが生み出す電子音と同様に、ホークウィンドが生み出す音の渦の一部に過ぎないのである。

この音の大渦巻きは、70年代前半のロックの中でも異彩を放っていた。「スペースロック」というタグは、当然のことながら、彼らのSFにインスパイアされた歌詞に関係するキャッチオール・タイトルだった。ホークウインドは、時にはドイツの実験的なクラウトロックバンドに相当するイギリスのバンドだった。タイトで容赦ないリズム、シンプルなベース主導のリフが延々と繰り返される。時には数年早く登場したパンクのようなサウンドも奏でた(ジョー・ストラマーとジョン・ライドンはホークウインドのファンだった。セックス・ピストルズが再結成されたとき、彼らは2002年のクリスタル・パレスでのライブでついに本性を現しオープニングで『シルバー・マシーン』のカバーを演奏した)。

60年代後半のカウンターカルチャーが崩壊し始め、”All You Need Is Love”のユートピア主義がより暗く、より怒りに満ちたものへと変化していった時期であった。彼らは、サイケデリックな精神の拡張や、少なくとも当初は金銭を軽視する態度など、ヒッピーの理想主義のいくつかの側面に執着していたバンドだった。彼らは、無料のチャリティー・ライブをやるために有料ライブを必ず断るようなバンドだったと、マネージャーは苦々しげに語っている。 しかし、彼らはまた、ユートピア的な”サマー・オブ・ラブ”の夢が終わったことをはっきりと示していた。1973年の問題となったシングル『アーバン・ゲリラ』の歌詞には、「ラブとフラワーと爆発しないものについて話すのはやめよう」とあり、ビートルズへの皮肉を込めて、「道路でやろうとすると魔法の力を全部使い果たすんだ」と歌っている。

彼らの音楽には、同じような緊張感がありました。ホークウインドのサウンドは、”サマー・オブ・ラブ”の時代まで遡ることができる。スペースロックの概念は、1967年のピンク・フロイドのデビューアルバム『夜明けの笛吹き男』でほぼ確立されたものだった。ホークウインドのライブ導入部の歪んだ声、エコーがかかった声、 「アース・コーリング」は、ピンク・フロイドのデビュー・アルバムのオープニング・トラックである『天の支配』(Astronomy Domine)へのオマージュのように聴こえた。ターナーの歌声は、ピンク・フロイドのシド・バレットとは似ても似つかない、無表情で、よく通る、中流階級のイギリス人らしい声だった。ホークウインドの得意とする意図的に繰り返されるような循環的ボーカルの傾向は、ソフト・マシーンの有名な際限なく続くWe Did It Againを思い起こさせるものであった。しかし、類似点はそこで終わっている。ホークウィンドには、バレット時代のフロイドの気まぐれさや子供のような不思議さはほとんどなく、ソフト・マシーンの高尚な前衛芸術への愛もない。ホークウインドの曲の中に『楽しい川べ』やベルギーの象徴主義詩人アルベール・ジローのようなロマンチックな世界観が現れることはなかった。
彼らの音楽は硬質で、容赦なく、攻撃的で、圧倒されるものだった。ホークウインドは催眠術やカタルシスのようなサウンドを奏でることはあっても、陶酔や幸福感に満ちたサウンドを奏でることはなかった。彼らが最も完璧に捉えたドラッグ体験は、心をオフにし、リラックスして川下に浮かぶのではなく、摂取したものが少し劇的に効き始める、突然の推進力の瞬間だったのである。1971年にブレイクスルーした『宇宙の探究』に収録されている『We Took the Wrong Step Years Ago』やターナー作『Children of the Sun』のように、当時の言葉で言うところの「メロウアウト」した時でさえ、彼らは決して穏やかにはなっていない。アコースティックギターを持ち出しても、どこか不吉な雰囲気があるのだ。「俺たちが探していたのは平和ではなく、恐怖だったんだ」とレミーは言っていた。「スペースシップはいつも俺たちと一緒に壊れていた」

ターナーがバンドと作ったすべてのアルバムに賞賛すべき点がある。1972年の『ドレミファソラシド』の濁った音はミステイクだったが、しかし、それが雰囲気を盛り上げている。1974年の『永劫の宮殿」は、自分たちのブランドで洗練されたものを提供できることを証明した。とはいえ、ムアコックが作曲した『ソニック・アタック』」という曲のタイトルに集約されるように、『宇宙の祭典』の驚異的な90分間で一種のピークに達したと言える。

しかし、ホークウィンドは常に回転ドアのように目まぐるしく、常に誰かが険悪な雰囲気の中で脱退したり、ドラッグの傷跡を残してよろめきながら去っていく。
ターナーは脱退した後、驚くほど多彩なキャリアを歩む。ジャズまでの網羅、その後結成したインナー・シティ・ユニットのアルバムタイトルにもなっている「パンカデリカ」への傾倒、フルートの実験である1978年のアルバム『Xitintoday』の一部は、ギザの大ピラミッドの王の間で録音された。ジャズドラマーのビリー・コブハム、デッド・ケネディーズのフロントマン、ジェロ・ビアフラ、スティングとレコーディングしたことがあるなど、様々なアーティストに対応することができる彼ならではかもしれない。ホークウインドとの関係がいかに激動であったにせよ、ターナーの心の広さと折衷主義を証明する非常に印象的な経歴である。ホークウインドでの彼はこれらの後年の作品の質を反映するものではない。その時代の装飾をふんだんにまとっているにもかかわらず、70年代の彼らの音楽は50年経っても古びていないように思えることが、いかにホークウインドがすごい存在であったかを示すものだ。

「ホークウィンドは危険だったんだ」レミーは数年後、彼らの魅力を要約するようにこう言った。「俺たちはしょっちゅう聴衆をハイにしていた」。ターナーの死によって『宇宙の探究』や『宇宙の祭典』を大音量でプレイする人が証明しているように、彼らは今でも人々をハイにすることができるのだ。